私はどこかで自分のことを、
「自分がいなくても大丈夫、自分の代わりはいくらでもいる。」
そんな風に思っていた。
ということを、最近自覚した。
この無価値感が波及するものは大きく、私はことごとく与えられたギフトを受容しないようにしていたのだ。
(今感じている、一側面の気付きです↑)
先日、早朝のパン屋のベイク(作る方)バイトで大寝坊をし、出勤さえできなかった、という出来事があった。
(正確には、内的には自ら望んで選択して、その具現を引き起こした)
当然お店から電話がかかり、留守電には、今日は出勤日であったこと、どうしたのか、ということ、そして、私一人がいないことで、ベイクが大変なことになっていた、というメッセージが残っていた。
実はこのバイトはまだ始めたばかりで、私は見習い研修中だった。
先輩の女の子のフォローを受けつつ、教わっているところだ。
この日は出勤4日目になる予定だった。
目が覚めて時計を見て、顔面蒼白を通り越してぐったりと脱力してしまった。
自分を責めそうになるのをくっと堪えつつ、でも心のどこかでは「私がいてもいなくても変わらない。私はまだ何の役にも立っていないから」
そんな思いもあった。
だから「まあいいや」と。。。
でも、実際は、そんなことはなく、すでに私は全体の作業の流れに組み込まれていて、もうそこには私の役割が生まれていたのだ。
いないことで、成り立たなくなるものがあった。
考えてみれば当たり前で、でもなぜかこの時は、そんな風には思えなかった。
振り返り、内観し、自身の霊性や、ラブスピースでの自分を置き換えてみると、その時初めて私が自分に対して何をいていたのかが見えてきた。
私の「部分」には、自分を無価値に思い、自分を打ち消そうとする私があった。
それは、内なる神を否定するも同じこと。
創造されてゆく宇宙を打ち消そうとするも同じなんだ。
なんて、ないがしろにしていたのか。
しているのか、自らを。
蓮ちゃんは言っていた。
人類の大部分の人たちが、自らを「まあいいか」で済ましてしまっていると。
たったひとりでも、その役割を放棄することで、スムーズな流れは滞り、創造されるべきものが創造されなくなる。
創造されたとしても、その質は変容する。
たったひとり欠けるだけで、同じものは二度と創れない。
ワンネスでオンリーワン。
半人前だろうがなんだろうが、必要なのだ。私も。
なくてはならない。
欠けてはならない。
一人の価値は、本当はずっと大切で、ずっと尊い。
ユニークさ、特質、個性。。。
そういったものが発揮されることで、新たな創造が生まれ、役割の体現にも繋がっていくのだろう。
さらに、連携しあうことで共同創造さえ起こる。
すべてが共同創造だ。
ここには、私の代わりはおらず、私にしか出来ないことがあり、私だから果たせる創造が在る。
それを、認めてもいいんだ。
受け容れてもいい。
ようやく、本当の意味で、受容することができるかもしれない。
少なくとも私は、今回の一件で、私だから価値がある、という事実を認めることを自分に許した。
少しずつ、自分を認めてゆこう。様々に。
今私は、私がここに居てもいいのだと、無価値感を抱える私の部分に対して伝えている。
内なる意識を変換する。
そうしてあげたい。
私のために。
どこにいても、何をしていても、本来ならナチュナルで当たり前に受容すべきこと。
自分の価値を本当に認められた時、真の体現は、きっとここから始まる。
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◆蓮との出会い
どこか遠くに探し求めなくても、愛は自分の内にあった。
私は一人ぼっちじゃなかった。
目には見えないけど、大いなる存在に守られ生かされていることを知った。
頭ではなく心で感じた、最近の私の自己探究。
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